感想文

     
 目次 1 「一つの花」(今西祐行)について…   2「しほちゃんのすいせん」(今西祐行)について…
     3 映画「萌の朱雀」(川島直美監督作品)について…

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感想文1 一つの花(今西祐行・「空のひつじかい」偕成社文庫所収)について…




  戦争は人間らしく生きることを認めません。兵隊に行った人たちが、たくさん死にます。町はやかれ、やはりたくさんの人たちが死にます。食べ物も不足します。これから大きくならなければならない子どもたちもいつもおなかをすかせていなければなりません。子どもたちの未来さえ夢見ることはできません。


 「この子は一生、みんなちょうだい、山ほどちょうだいといって、りょう手をだすことをしらずにすごすかもしれないね。一つだけのいも、一つだけのにぎりめし、一つだけのかぼちゃのにつけ……。みんな一つだけ、一つだけのよろこびさ。いや、よろこびなんて、一つだってもらえないかもしれないんだね。いったい大きくなって、どんな子にそだつだろう。」

 おとうさんが深いため息をついてそう言ったのは、人間らしく生きることを認めない戦争に対して、やりきれないいかりの気持ちをもっているからです。



 しかし、戦争という怪物を前にしたとき、ひとりひとりの人間はまったく無力です。戦争をやめさせるなどということはひとりの力でできるものではありません。だから、おとうさんはゆみ子をめちゃくちゃに高い高いするしかなかったのです。それが、ゆみ子にしてやれる人間らしいただ一つのことだったからです。



おとうさんが戦争に行かなければならなかったのも、それをいやだということはできなかっからです。ばんざいや軍歌の声に合わせて小さくではあっても、ばんざいをしたり歌をうたったりしていたのも、そうするほかはなかったからです。 



 戦争は、人間らしく生きることを認めないだけでなく、人間らしい心までもうばってしまいます。いさましく軍歌をうたったり、大きな声でばんざいをさけんでいる人たちは戦争に魂までもうばわれてしまっているのです。



 しかし、おとうさんはちがいました。人間らしい心だけは守り通したのです。 
 いよいよ汽車が入ってきたとき、おとうさんは、プラットホームのはしっぽの、ごみすてばのようなところに、わすれられたようにさいていたコスモスの花をみつけ、ゆみ子に手渡します。
 「一つだけのお花。だいじにするんだよう。」

おとうさんがゆみ子に手渡した一つの花は、戦争の中でわすれられている「人間らしい心」なのです。お父さんは、「人間らしい心」だけはだいじにしてほしい、とゆみ子に言い残して、汽車に乗っていってしまったのです。



 
  いまゆみ子のとんとんぶきの家は、コスモスの花でおおわれています。

 それは、おとうさんがゆみ子に渡したコスモスがふえたものでしょうか。

 ミシンをふんでいるのはおかあさんでしょうか。

 おかあさん。お肉とおさかなとどっちがいいの」

 買いものかごを下げたゆみ子が、スキップしながら買いものに行きます。
 秋の初めの平和な日曜日です。


 

平和は人間らしく生きることを保障します。しかし、それがため、それになれてしまい、かえって「人間らしい心」の大切さがわからなくなってしまう、ということにもなります。だから、「一つの花」は今も、いや、今のような平和な時代にこそ大切にされなければならないのだと思います。作者が、平和な現在から、戦争がはげしかったころをふりかえり、この物語を書いたのは、平和な時代にこそ「人間らしい心」をうしなってはいけない、ということをうったえるためではないかと思います。


問題提起
 「一つの花」の主人公は「ゆみ子」ではなく、「おとうさん」では?


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感想文2 「しほちゃんのすいせん(今西祐行・「空のひつじかい」偕成社文庫所収)について…


―悲しみをこえて―
 「しほちゃん」のお父さんの立場で、亡くなったしほちゃん宛に手紙を書いてみました。

 しほちゃん、今日、庭の池のふちにすいせんが咲きました。大きなふっくらとした白い花のすいせんです。今まで、すいせんなんて咲いたことがなかったのに、不思議ですね。じゅんちゃんとまりちゃんが見つけて、お父さんとお母さんに教えたのです。みんなは一目見ただけで、「しほちゃんのすいせんだ。」と思いました。そこで、「しほずいせん」と呼ぶことにしました。

 しほちゃん、冬の間、お父さんたちは、ただ悲しくて、じっと家に閉じこもりがちでした。四人で四角いコタツにあたれば、いつも一人はみだして、お父さんのひざにだかれていたしほちゃんのことを思い出してしまうのです。そこで、みんなで歌を歌って、しほちゃんのことを思い出さないようにしようとしました。でも、「どんぐりころころ」の歌を歌いかけたときには、やっぱりしほちゃんのことを思い出してしましました。みんなだまりこくってしまい、とても悲しい気持ちになりました。

 そこで、お父さんは、雪だるまを作ろうと、じゅんちゃんとまりちゃんをさそって外に出ました。そして、大きな雪人形を作りました。できあがってみると、それはしほちゃんそっくりでした。そこで、おとうさんと、じゅんちゃんとまりちゃんは、三人で家の中に向かって、「かあちゃん、しほちゃんだよ」と大きな声で言いました。でも、もう悲しくなることはありませんでした。元気いっぱいのしほちゃんが帰ってきたようだったからです。

 雪の「しほちゃん」は、冬の間、ずっとみんなといっしょにいました。暖かくなってもずっと残っていました。でも、昨日、とうとう最後の雪のかたまりが消えてしまいました。でも、その昨日、まるで雪の「しほちゃん」の代わりのように、「しほずいせん」がさいたのです。お父さんたちには「しほずいせん」はしほちゃんのうまれかわりだとしか思えません。

 このすいせんは、これからも毎年花を咲かせてくれることでしょう。そして、ふえていくことでしょう。お父さんたちは、このすいせんをしほちゃんだと思って、だいじに育てていこうと思います。そして、このすいせんの白い花のような明るい心で生きていこうと思います。

 しほちゃん、ありがとう。これからもずっといっしょだよ。

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 感想文3 「萌えの朱雀」 (河瀬直美監督)について…

インターネットテレビ「Gyao」で河瀬直美監督の「萌えの朱雀」を見た感想を書いてみました。メモ書き程度に書いたレビューを膨らませました。

 

この映画の時代背景がよく分からないという人もいると思われる。この映画の背景とされている時代は、おそらく70年代後半から80年代前半であろう。「国鉄バス」が走っていることからも、国鉄がJRとなる80年代半ば以前であることが分かる。それは、高度経済成長以降今日に至るまでの時代の中間点あたりの時代であるが、この映画の中で、その時代を、たとえば、1979年とか1981年というふうに特定する必要はない。この映画は、そのような形式的な時代を背景としているのではなく、経済産業構造の変化の中で山村が山村として存続しがたくなるという、ある時代がある時代として把握されるその時代の実態的傾向を背景としているからである。

 

おそらくこの映画を見る人たちの多くは、この映画を退屈に感じるであろう。何のアクションも、激しい恋愛も、明確な多くのせりふも出てこないからだ。おそらく都会人の多くは、そして、田舎に住んでいる人の多くですら、タッチのやわらかい長いカットの山林や山村の景色に対し、何かしら違和感を感じるのではないかと思われる。しかし、この映画はそこを狙っているのだ。あえて現代の日本人の感覚に沿わないことを意図して作られている。それは、この映画を見た人たちに問いかけるためなのだ。「刺激の中毒になっているようなあなたの感覚は本当にあなたにとって幸せなものなのですか?」 

 

この映画は、山村経済の衰退や高齢化の問題を物語の背景に置き淡々と描いている。「そんなことオレにはカンケーねーよ」という人もいるだろうことは見越してあえて描いている。これらの問題は、高度経済成長期に始まり今日に至っては極限に達した感すらある。この映画の中では、鉄道開設に村の再建を賭けたが、失敗し、トンネルだけが残ったことになっている。これは、炭鉱から観光への転換によって経済を再建しようとしてかえって財政破綻を招いてしまった夕張市の問題と相似形をなす問題なのだ。こういった問題の根元にある問題は日本の田舎のほとんどすべてが抱える問題なのだ。その反面には都会の問題があり、さらに戦後日本の政治、経済、文化の目指してきたものは何だったのかという歴史的な問題がある。一人の人間が生きることに関係なくはないのだ。この映画は、そのことを認識して考えてほしいと願っているのだ。だから、政治的主張など微塵も混じってはいない。 

 

映画の中の家族は結局崩壊していく。人生は、どんな原因によるものであれ、そうならざるを得ないときはそうならざるを得ない。しかし、家族は崩壊しても、家族としての思い出の絆は失われはしない。あの娘と従兄が、幼い時から、幾度となく屋根の上から眺めた景色は、それぞれの魂の一部となりお互いに共有されている。幼い日に一緒に遊んだことも、輝く笑顔も、さらに、父親の遺品の8ミリカメラに残されたさまざまな人々の笑顔の思い出も、彼らの心の中に生き続ける。あの娘は初恋の従兄に別れを告げ、新しい人生を歩んでいくのだろう。それはむしろ希望的ですらある。この映画は、滅びゆくもの、失われゆくものへのレクイエムであると同時に、ある再生への希望ないし願いでもあるのだ。「萌えの朱雀」という言葉には、そんな希望ないし願いが込められているように思われる。

 

この映画は寡黙である。しかし、この映画は寡黙であることにより、実は、現代という時代に確固たる挑戦をしているのだ。根無し草でない人や文化の確かな再生を願って…。

 

*萌=芽吹き 

*朱雀=中国古代の四神の一人であり、鳥に見たてられる神であるそうだが、ここでは飛び立つ鳥のイメージでとらえるのがよいように思う。


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