個人指導か集団指導か? HPトップ     


鈴木国語は個人指導はしません。それは以下のような考慮によるものです。
少し長い文章ですが、ぜひお読みください。



1 個人指導の方がていねいか?


 個人指導であれ、集団を対象とする指導であれ、教え方はていねいでなければならない。
個人を対象とするからていねいであり、集団を対象とするからていねいでないということはないはずだ。
 もしその講師の授業がていねいでないように見えるとすれば、それはその講師の授業能力に問題があるのであり、集団を対象とした指導だからではない。
 逆に、もしその講師に実力があれば、個人指導などするであろうか。種々雑多なものを含みつつ、生徒に大きな影響を及ぼすスケールの大きな授業をこそしたいはずである。



2 個人指導の方がわかりやすいか?

 わかりにくいということの原因が講師の側にある場合。その講師が個人指導をしたとしてもわかりにくいはずである。

 逆に、たとえば、偏差値30台の生徒がわかりやすいと言う授業を分からないという場合、あるいは、ほとんどの人が分かりやすいと言う授業を分からないという場合、これは集団を対象とする指導だから分かりにくいのではなく、その生徒自身に分かりにくいということの原因があるのである。はっきり言えば、その生徒には、受験といえるような受験をする適格性がないといえる。
 結局、授業がわかりやすいかどうかは、集団指導か、個人指導かの問題ではなく、その講師の能力が高いか低いか、あるいは、その生徒に最低限の受験適格性があるかないかの問題になってくる。

 ちなみに、「受験不適格」というようなことを言うと、人に対する思いやりを欠く差別主義者のように思われるかもしれない。しかし、たとえば、小太りの中年男性で、バレーなど習ったこともないS氏が、「白鳥の湖」を見て感動し、突然バレー・スクールの門をたたいたとしよう。S氏が、バレーと言えるようなバレーをマスターすることはだれも期待しないはずである。S氏は酔狂ではあっても、バレーに対する適格性はないのである。
 人には向き不向きがあるのであり、受験に向かないからといって、その人の価値がなくなるわけではない。むしろ自分に向くものを見つけて、そちらの才能を伸ばすべきである。
 話がわき道にそれたが、要するに、授業がわかりやすいかどうかは、集団指導か、個人指導かの問題ではないのである。



3 一つのビーカーから他のビーカーへ水を移すように、勉強も教師から生徒へと移せる のではないか? 個人指導ならそれができそうだ。

 もしその生徒が極めて集中力が高く、意欲的な生徒であれば、教師が教えることはまるで一つのビーカーから他のビーカーへ水を移すようにその生徒に吸収されていくであろう。しかし、そのような生徒であれば、なにも個人指導を受ける必要はない。集団指導の優れた授業を受ければ、同じ効果をうることができる。

 逆に、もしその生徒が、意欲や集中力を欠き、努力もきらいな生徒であれば、そのようなことは不可能であるといえる。なぜなら、勉強は情報(知識・思考)を自分の脳に蓄積する作業であり、意欲や集中力、あるいは、努力を欠いてできるものではないからである。
 
 つまり、学力をつけるには、意欲・集中力・努力といったものが必要なのであり、一つのビーカーから他のビーカーへ水を移すように、勉強を教師から生徒へと移すなどということは本来的に不可能なことなのである。個人指導だから、それができるということはないのである。


4 個人指導なら、生徒の意欲・集中力・努力というものを引き出せるのではないか。

 受験に必要な「意欲」「集中力」「努力」というものは、常に競争相手である他者の存在を前提にしているのである。この点で、個人指導というものには根本的な疑問がある。学力をつけるには、試験で競争するのではなく、その前提になる普段の授業の場で磨きあうことが必要なのである。たとえば、マラソンの練習ですら、練習相手があったほうが効果的であると認められている。
 
 力のある講師の集団指導であれば、授業は面白く、わかりやすいし、生徒とそれぞれの個性を反映した種種雑多多様な要素(いわば料理のだし)を含みつつ授業が進むので、「意欲」「努力」「集中力」というもののも引き出されるのである。集団授業には鍋物の良さがあると言ってもよいであろう。




5 個人指導の方が目が行き届くのではないか。

「目が行き届く」とはどういうことか。継続してその子を監視しているということか。そのような監視が必要な子であれば、その子は操り人形のようなものであり、やはり受験不適格という疑いが持たれる。

たとえば、その子に問題を取り組ませているときに、ちょくちょく手を出すということか。基本は自ら解決するという姿勢を持たせることである。したがって、手の出しすぎは控えなければならない。
個人を対象とすると、生徒の能率が悪い場合、教師も退屈するし、時間も限られているので、ついつい答えを教えてノートを取らせて片づける、ということにもなりかねない。
力のある講師であれば、二十人程度のクラスは、必要に応じて、充分に目を行き届かせることができる。橋は橋げたによってささえられるが、橋の下を全部橋げたで埋め尽くす必要はない。



6 塾に通う時間は無駄か?

 遠くから通うことは(通える限り)無駄ではない。それ自体が努力である。また、賢い子であれば通いの電車の中の時間を利用して勉強する工夫をするであろう。朝早く、私立小学校の生徒が電車の中で本を読みふけっている姿にはエールを送りたくなる。もちろん安全には、配慮しなければならないのだが。



7 集団の中では集中できない。

 それは集団の中で集中する訓練が必要なだけのことであり、集団の中では集中できないという状態をそのままにしてはならない。そのように言う生徒、あるいは、他人がうるさくて集中できないという生徒は、自らうるささの原因になっていることがほとんどである。

 良い方にとらえれば、子どもの愛すべき不完全さとも言えるが、子どもは大人への過程にいるのであり、やがて大人にならなければならないとすれば、やはりそのままに放置してよいとは言えないであろう。



8 なぜ集団対象の指導か?

 集団が集中し勉強に取り組むときの勢いは個人指導の比ではない。競争は競争する者相互間の力を大きく引き出し、集中力はお互いの集中力を高める。たとえば、デモ隊、御神輿、合唱などの場面ではこれと類似、あるいは、本質的に同種の現象が見られるであろう。

集団を対象とした指導のメリットはこの点にあるのであり、生徒にとっては充実して何かをやり遂げることの素晴らしさを知るよい機会となるであろう。


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