エッセイあるいは論説



目次
1 本当に元気?−熱狂・仕事・教育改革    2 差別について    3 「いじめ」について    4 ルーシーさん事件についての視点  
5 河瀬直美監督作品「萌の朱雀」を見て    6 ギャル言葉はいけないの?    7 えっ! 加齢臭???  
8 ホントに日本は変わったの?−菅降ろしを見て
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本当に元気?−熱狂・仕事・教育改革? 06.03.04

 若者の歌の歌詞を聞いていると、元気を出せ、くじけるな、チャレンジすることが大切、自分を大切に、など、ずいぶん当たり前のスローガンが叫ばれている。数人のグループがステージの上で踊りながら歌い、観客はこぶしを振り上げて熱狂し体でリズムを取り、みんな同じ動作を繰り返す。元気といえば元気だ。
 しかし、世の中の若者はフリーター化し、さらに、ニート化している。この現実の「元気のなさ」と、テレビなどで見るコンサートの「元気さ?」とのギャップは何なのか。

 そこで、この問題を考えるために、まず、次のような問題を出してみる。
 もしロックコンサートやサッカーの試合には熱狂するが、仕事や勉強には熱中しない人間というものがいるとすれば、この人間のことをどう評価すべきだろう。
 本末転倒だと非難すべきだろうか。
 人生をエンジョイしていると賞賛すべきだろうか。


1まず、「仕事」というものについて考えてみる。
 仕事は工夫を要する。「こうすれば、こうなる」という因果関係の法則を発見し積み重ねていくことが工夫だ。工夫はいつも手探りから始まる。たくさんの手探りによる実験の失敗例から、「こうすればこうなるだろう」という多くの仮説が生まれ、それが試されているうちに「こうすればこうなる」という確かな法則が発見される。そうして確立された工夫は論理である。そして、工夫が重ねられ整っていくにしたがって、論理も緻密なものとなり体系化されていく。したがって、その工夫ということは、当然、脳に大きな影響を与え、人の思考力を作ったり、人格を作ったりする。人格というものも実は思考や感情の調整の問題であり思考力によってコントロールされている。ただそれはほとんど習慣化されているので、そのコントロール自体が意識されることはあまりない。

 ところで、そもそも、人間の脳は、正常な生物的機能を有する限り、ほとんど無限にソフト化が可能なものなのではないだろうか。記憶ということも、何かを金庫に保管したり、写真として保管したりするような、そのもの自体やコピーの保存なのではなく、ソフト化なのではないかと思う。つまり、頭の中にある光景を思い浮かべることができるということは、脳細胞をそのように機能させる機構が頭の中に作られているということなのだ。だから、単に漢字の形をそのまま覚えようとするよりも、その成り立ちや部首の意味というものと関連させて覚えると覚えやすいし、例文とともに覚えると覚えやすい。ところが、たくさんのことをきちんと整理して覚えるのは手間がかかるため、人は手抜きをしようとする。手抜きの最たるものは一夜漬けだ。しかし、これは試験が終われば気化してしまう。逆に、しっかりと体系化して覚えた知識は簡単には忘れないし、忘れても比較的たやすく再現できる。つまり、勉強は、急がば回れ方式で、きちんと知識相互のネットワークを作りつつ、体系化してする方が力がつくのだ。このことは、記憶ということが脳の中にソフトを作ることであることを示すものであるように思う。脳はこうしたソフトによって機能する。そしてそのソフト化には限りがない。少なくとも、限界というものは証明されていない。

 このように見てくると、仕事というものは脳のソフト化を意味する、といえる。そして、そのソフト化の微妙な違いが、人の個性の違いとなって現れてくる。たとえば、AとBというフィギュアの選手がいるとしよう。これが三回転ジャンプという同じ技をする場合でも、ソフトは同じではない。身長・体重・胸囲・胴回り・手足の長さ・筋力・頭の重さなどによって、三回転ジャンプの条件の整え方は違ってくるからだ。そのように同じ仕事をするにしても、その人独特のものが出るのが仕事なのだ。職人仕事といわれるものはまさにこのようなものなのだろう。

 ところで、フリーターの仕事というものは、この種の仕事とは異質である。それは、ほとんどの場合、マニュアル化され単純化された仕事であり、そこにその人独特のものなど形成される余地はない。むしろそのようなものは不要なものとして排除される。これは人間の個々人の思考力の形成というものを妨げるであろう。


2次に、熱狂ということについて考えてみる
 熱狂ということは、かなりの数の人間との感情の共有である。人間は群れを成す動物だから、大昔からこのようなことは繰り返して来たに違いない。祭りとはそういうものなのだろう。ただ、最近の熱狂はそのような大昔からの祭りの熱狂とは性質を異にしているように思う。大昔からの祭りの熱狂は、自然と戦って生きのびるための厳しい仕事が生活の大半を占める中で行われたものである。そこには、生きるための真剣な工夫があった。それゆえ、そこにはその時代なりの最高レベルの思考力とその結果としての知恵があったのだと思う。祭りの熱狂は、その普段の生活における思考力や知恵を前提としたものであった。
最近の熱狂はどうだろう。仕事に自分の存在根拠が「ある」ことを前提とした熱狂だろうか。仕事に自分の存在根拠が「ない」ことを前提とした熱狂だろうか。後者においては熱狂自体を自己の存在根拠とすることになる。熱狂している自分が本当の自分で、仕事をしている自分は本当の自分ではないと思っている。熱狂しているときが最高の幸せ、ということになる。

 この場合、生活は、仕事による工夫を通しての思考力の練磨や知恵の蓄積という性質を持たなくなる。単に熱狂という消費のための金の稼ぎ場でしかなくなる。この場合、熱狂する人々の思考力はその人独特のものでなく、一般的なものになるであろう。ちょうど、最近の若者の歌の中で叫ばれるスローガンのように…。それは同調の原理として作用することはあっても、批判の原理として作用することはない。批判は、一般に対する個の反抗であるともいえるからである。つまり、思考力の一般化は、批判の原理の個人からの欠落を意味し、他への同調の危険を伴うのである。

 05年9月の衆議院選挙で、「改革」という一般的な言葉によって自民党があれだけの多数の支持を得たのはなぜか。それは「改革」によって経済格差による不利益を受ける層も自民党を支持したということであろう。「勝ち組」と「負け組」という言葉が使われるが、両者の数が拮抗するということはない。少数の「勝ち組」に対して、多数の「負け組み」が生じ、ピラミッドの形をとるのがこの世の常である。したがって、自民党の一人勝ちは、自民党を支持しても損をするだけの多数の人間が自民党を支持したことによって生じたのである。これは個人の批判の原理の欠落を証明しているといえるだろう。そして、この自民党を支持した多数は層は、フリーター層と大きく重なるのではないか。あるいは、フリーターでなくても、自分の仕事といえるような仕事を持たない層と大きく重なるのではないだろうか。そうだとすれば、「仕事」の死滅が、人々の思考力を一般的レベルにおとしめ、その結果、個人の批判の原理を欠落させ、同調追随という状況さえ生み出しているといえるのではないか。

 さらに、熱狂について注意しなければならない点がある。熱狂はそれに焦点を与え、先導する人間を必要とする。熱狂者の思考は一般的で、自ら判断して行動を起こせるようなものではない。ゆえに、常に自分に指図を与えてくれるものを求めている。そのような人間の指図に従い、熱狂に身をゆだねることで、自己の存在感を確認する。それゆえ、熱狂はカリスマを待望することになる。たとえば、小泉首相、ホリエモン…。マスコミはこの大衆の傾向に迎合し奉仕する。なぜなら、それが彼らの利益となるからだ。このことは、すでに新たなファシズムの基盤が十分に用意されていることを示してさえ言えるだろう。熱狂し迎合し、メシアを求める大衆は権力者が自由に操ることができるからだ。

 こう考えてくると、「仕事の死滅」が現代日本(だけではないだろうが)の若者の思考力を退化させているのではないか、という疑いがもたれる。そうであるとすれば、それは、グローバル化や情報化と結びついた日本の産業構造から生じる一種の環境問題としてとらえられるべき問題であり、単に若者に心構えを呼びかけたり、教育を改革という名で教育をちょっといじくる程度のことによっては改善できるものではないと思われる。

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差別について

 「人間は社会的な動物である」とマルクスは言った。これを動物という次元から見れば、人間は「群れ的な動物である」ということができる。ただその群れの成り立ちが他の動物に比して複雑なだけである。

 人間が「群れ的な動物である」ことは、次の二つのことを意味する。
 一つは、群れ的な行動をするため、その行動には画一的な傾向が生じるということである。たとえば、日本人であれば、頭を下げて挨拶する、アメリカ人男性であれば、握手をするなどである。それがそれぞれの群れの行動の特色となる。これを人間の言葉では文化という。
 二つは、この行動の画一性に、群れの構成員は自己のアイデンティティーを見出すということである。これは群れへの帰属意識や愛着という感情として現れる。ゆえに、群れは群れとして同一性を保ちうるのである。

 差別の根源は、この群れ構成員が持つアイデンティティーにある。つまり、自分たちの群れの画一性の基準と異なる行動をするものに、違和感・嫌悪感・敵意を抱く。ここに相手に対する差別感情が生まれる。「あいつは俺たちと違う」「なんと礼儀知らずな!」「許しておけない!」

 差別がこのような構造を持つとすれば、それはきわめて感情的なものである。したがって、その非を論理的に説いても、相手は理性的に納得したり、論理的にやり込められたりするだけで、差別感情を直ちに左右することはできない。同じく、差別解消のための制度(白人と黒人が同じ学校で学ぶというような)を設けたとしても、それは理性に働きかけるものに過ぎないため、差別感情自体はかえって潜在化することにもなる。
 もっとも、理性的認識や共通体験が相手への認識を深め、差別感情を解消することも期待できるであろうが、全面的にそのようになるとは期待できないであろう。

 一般に差別は、多数者あるいは権力を握る側から、少数者あるいは権力無き者たちに対してなされる。また、ある集団からある集団に対してなされる差別は、就職の機会の差別とか、給料の差別というような、明確な形で特定しやすい差別から、特定しがたい無数の差別まで、さまざまの形態を含む。後者の例として、たとえば、すれ違ったら眉をしかめられたとか、遠くからこ馬鹿にしたような目で見られたとか…

 差別者側は一般に権力を持つため、被差別者側は、生き延びる必要上、差別を忍従することになる。しかし、時としていろいろの理由・事情から被差別者側の忍従が限界に達することがある。たとえば、仲間が差別者側からリンチを受けたとか、差別によって生活が成り立たなくなったとか…。その時に、被差別意識を軸にして、彼らは連帯し、反逆暴動に及ぶ。

 2005年のフランスにおける、移民の若者たちによる暴動騒ぎは、この角度から理解されるべき面が大きいように思われる。

 差別は、それが群れへの帰属感情という生物的に原始的なものを根源にもつため、差別を解消させるということは容易なことではないであろう。「汝の敵をゆるせ」というキリストの教えを実行することが難しいのと同じくらい難しいように思われる。実際、ちらりと見たテレビ番組の中で、バチカンの上級の僧職にある人間に対し、黒人が教皇職に就く可能性にについてインタヴューをしていたが、彼は、受け入れがたいというような反応を示していた。

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「いじいめ」について

いじめによる少年少女の自殺ということが問題になっている。

 まず、自分の自殺の原因はいじめであると自殺者の遺書に書かれている。自殺者は周囲の者たちのある言動をいじめと取っているわけである。

 しかし、自分に向けられた他人の言動の受け取り方は、人によって大きく違う。人に「バカだなァ、お前は!」と言われた場合に、「アハハ、そうだね」と受け取る人もいれば、グサッと傷つく人もいる。これを逆に考えれば、「いじめ」という概念は受け取り手によってとらえ方が違うので、「殺人」とか「窃盗」とかいう概念ほど客観的に明確に確定できない概念であると言える。受け取り手の受け取り方によって「いじめ」になるとすれば、主観的・相対的な概念であるといえる。そこで、「いじめはいけない」というような単純な禁止基準を設けるとすれば、我々が日常何気なく使う言葉の多くが、使用後に結果的にこの禁止基準に引っかかるということになる。

 次に、「いじめによる少年少女の自殺」というとらえ方は、マスコミ報道によって国民の多くに共有されているとらえ方である。

 確かに、「自殺者の遺書にいじめが原因であると書かれていた」という部分の事実の報道は正しい。しかし、それは自殺者がそういう趣旨の遺書を残して自殺したという事実に過ぎず、「自殺者の自殺の原因が本当にいじめにある」ということにはならないのである。人間は自分の行動を理由付け正当化するが、それがその人の真の行動理由とはならない。例えば、政治家が「誠心誠意皆様のお役に立ちたい」というのは、本当に彼が選挙に立つ理由なのかどうかしっかり検討しなければならないだろう。これと同じように自殺者の自殺の原因も遺書の文言をそのまま額面どおりに受け取ることはできないはずである。自殺者の遺書もひとつの要素として真相を究明しなければならない。それが可能かどうかは別問題である。
こうしてみると、「いじめによる少年少女の自殺」というとらえ方は、充分な真相の究明を経ない安易なとらえ方であるといえる。


「いじめのない世の中」というものはあるのだろうか。それはみんなが賛美歌を歌い、お経を唱えるような唱和の社会かもしれない。しかし、それは死者の社会かもしれない。生きるという活動は、食べる・生殖をするなどの動物的なものから、自己実現と言った高度に精神的なものを含めて、競争は不可避であり、その競争にかかわる対立や確執から、いじめということも不可避的に起きてくる。あるいは、お互いに気心の知れた仲なら、お互いに相手の痛いところをついて、チクリチクリとやりあうというようなスパイス入りの会話を楽しむこともある。これだって一種のいじめである。

 要するに、いじめのない社会などないのである。したがって、「いじめによる自殺」という因果関係の判断はあまりにも広範囲の「いじめ」を原因としてしまうことになる。

 社会に「いじめ」が伴うとしても、多くの人間はその中で生きている。また、ひどいいじめを受けたようなときにも、誰かに相談したり、そのいじめを回避したり、そのいじめに対抗したりする手段をとったりしている。つまり「いじめ→自殺」という必然の因果関係はないのである。

 しかし、自殺する人間を、どこかの都知事(一人しかいませんが…)のように「弱虫だ」とするのはあやまりである。肉体的に弱い人間に肉体的に強い人間が物理的な力を加えれば、肉体的に弱い人間はダメージを受けるが、これと同じように、精神的に弱い人間にプレッシャーとなることをすれば、その人間の精神はダメージを受ける。そして、相手の弱いところにつけこみたがる人間がいるのも人の世の常である。

 そこで、「いじめによる自殺」が生じた場合には、真にいじめの事実が存在し、その結果、自殺がなされたのかどうかを、慎重に調査判定する必要があろう。これは、一つの機関が行うよりも、三つくらいの機関が、それぞれ独自に調査判定し、最終的に、それを統合するなどの方法が有効であろう。

 次に、「いじめによる自殺」ということを未然に防止することが必要なことは言うまでもない。この場合、特に学校の従来の組織・体制というものを見直すことが必要だろう。
 たとえば、クラス担任制などという硬直な制度を保持していないで、生徒全員に対し全員の教員で対応するようにすれば良い。対応教員の数が多ければ、生徒は相談しやすい人を見つけやすくなるだろうし、教員側も見落としや、生徒との相性による対応のしにくさが少なくなるであろう。

 また、暴力的な生徒などは、教員のみでは対応できない場合もあるので、警察や地域社会の協力を得て対応するなどの方法もとるべきであろう。子どもを単純に生善説的に見たり、教育の場を神聖なる場所と見るような固定観念を取っ払って考える必要がある。

 さらに、校長や教頭の役割も、教員の管理者から生徒の相談役に比重を移すなどの思い切った改革も必要であろう。校長は校長室に座っているだけではなく、動き回って常に構内の生徒の様子・考え・希望・問題などを把握するという役割をになうべきなのである。そうしなければ、校長や教頭は問題が生じてしまった後に、例のごとく頭を下げるだけの形式的責任者に墜してしまうだろう。

 いずれにせよ、従来の学校観を変え、よりアクティヴなサービス機関としての面をもたせることと、文部科学省の縛りを排除し、現場主義・創意工夫・臨機応変・迅速対応を可能にすべきであろう。文部科学省は(あるいはそれとは別の評価機関は)学校がそのように機能しているかどうかをチェックすべき機関となるべきである。

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ルーシーさん事件についての視点 (070426日)

424日 東京地裁で、栃木力裁判長は、ルーシーさんに対する準強姦致死の罪に問われていた織原城二被告を、「別件の犯罪や被告の性癖などから、準強姦という犯罪が客観的に存在したと認定するのは不可能だ」とし、無罪とした。

まず、刑事訴訟の大原則は「疑わしきは罰せず」という原則である。この原則にもとづいて、犯罪事実は厳密に客観的に認定されなければならない。もし状況証拠だけで犯罪事実が認定できるとすれば、その範囲は歯止めなく拡がる恐れがある。たとえば、19956月の松本サリン事件(ウイキペディア「松本サリン事件」)では、事件の第一通報者の河野義行さんが、農薬を自宅においていたために、半ば真犯人として扱われたのであった。この事件は捜査段階で冤罪が晴れたので、裁判による冤罪事件ではないが、状況証拠による犯罪認定の恐ろしさを示唆するであろう。「疑わしきは罰せず」という原則は、こうした基本的人権・人身の自由の蹂躙がなされないようにするために絶対に保持しなければならない原則なのである。この原則を保持した結果、感情的に納得できないような事態が個別に生じたとしても、この原則を緩めるべきではない。それは、全体としての基本的人権を危うくするからである。

栃木裁判官の判断は、この原則を明確にしたものであり、裁判官としての職責をしっかり果たしたものである。

逆に、検察側は状況証拠しか示さないとすれば、その捜査方法や刑事裁判に対する態度こそが批判されるべきである。これは検察としての職責を果たすものとはいえない。

しかるに、民放テレビなどは、「疑わしきは罰せず」という大原則を明確に示し、この重要性について解説することはせずに、直ちに裁判結果を疑問視する報道をしているものが多いようである。

しかし、この裁判結果を疑問視するのならば、「疑わしきは罰せず」という大原則をまず示して解説した上で、この原則を否定する他の原則を論拠とともに示さなければならない。そうでなければ、批判の理論的な基準がないではないか。そのような理論的基準無しにこの判決を批判するとすれば、その依拠するものは被害者びいきの「感情」ということになろう。しかし、それでは、マスコミ報道は、単なる国民感情の扇動者としての役割しか果たしていないことになる。マスコミ報道は、民主主義下では世論の形成という教育的意味を持つのであり、基本的人権に対するしっかりした認識をもつ責任があると言える。この責任を果たさないマスコミは民主主義化では存在価値がないとまで言えよう。

次に、テレビに登場する「専門家」の解説意見も、マスコミの報道を正当とするものが多いようである。報道の客観性を担保するためには、マスコミ報道機関は、少なくとも、二つの対立する意見・解説を同時に紹介するということが必要なはずだ。このような方法をとらないマスコミの報道姿勢というものはどのように理解すればよいだろう。要するに、基本的人権の原則などどうでもよく、その時々の国民感情に迎合して視聴率を稼ごうというのだろうか。視聴率稼ぎのためには何でもするというのなら、「あるある大辞典」の事件と同根の感覚がマスコミに蔓延しているのではないか、と疑われても仕方ないだろう。談合が公務員・そのOB・ゼネンコンなどに蔓延しているのと同じように。

ちなみに、あるテレビに出演していた解説者は、この裁判の事実認定は、最近の状況証拠だけで犯罪事実を認定する裁判の傾向に反すると解説していたが、「疑わしきは罰せず」の原則からすれば、そういう裁判の傾向自体を問題視すべきなのである。はっきり言ってあきれた。

第三に、状況証拠しか示さなかった検察を批判する報道も少ない。もしかしたら、マスコミ関係者は、基本的人権とか人身の自由ということについて一般常識を欠くのかもしれない。

ルーシーさん事件は、基本的人権とマスコミの役割を考える素材となりそうである。そして、日本のマスコミが今後の歴史の中でどんな役割を果たすのかを。


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河瀬直美監督作品「萌の朱雀」を見て070611日)

インターネットテレビ「Gyao」で河瀬直美監督の「萌えの朱雀」を見た感想を書いてみました。メモ書き程度に書いたレビューを膨らませました。

この映画の時代背景がよく分からないという人もいると思われる。この映画の背景とされている時代は、おそらく70年代後半から80年代前半であろう。「国鉄バス」が走っていることからも、国鉄がJRとなる80年代半ば以前であることが分かる。それは、高度経済成長以降今日に至るまでの時代の中間点あたりの時代であるが、この映画の中で、その時代を、たとえば、1979年とか1981年というふうに特定する必要はない。この映画は、そのような形式的な時代を背景としているのではなく、経済産業構造の変化の中で山村が山村として存続しがたくなるという、ある時代がある時代として把握されるその時代の実態的傾向を背景としているからである。

おそらくこの映画を見る人たちの多くは、この映画を退屈に感じるであろう。何のアクションも、激しい恋愛も、明確な多くのせりふも出てこないからだ。おそらく都会人の多くは、そして、田舎に住んでいる人の多くですら、タッチのやわらかい長いカットの山林や山村の景色に対し、何かしら違和感を感じるのではないかと思われる。しかし、この映画はそこを狙っているのだ。あえて現代の日本人の感覚に沿わないことを意図して作られている。それは、この映画を見た人たちに問いかけるためなのだ。「刺激の中毒になっているようなあなたの感覚は本当にあなたにとって幸せなものなのですか?」 

この映画は、山村経済の衰退や高齢化の問題を物語の背景に置き淡々と描いている。「そんなことオレにはカンケーねーよ」という人もいるだろうことは見越してあえて描いている。これらの問題は、高度経済成長期に始まり今日に至っては極限に達した感すらある。この映画の中では、鉄道開設に村の再建を賭けたが、失敗し、トンネルだけが残ったことになっている。これは、炭鉱から観光への転換によって経済を再建しようとしてかえって財政破綻を招いてしまった夕張市の問題と相似形をなす問題なのだ。こういった問題の根元にある問題は日本の田舎のほとんどすべてが抱える問題なのだ。その反面には都会の問題があり、さらに戦後日本の政治、経済、文化の目指してきたものは何だったのかという歴史的な問題がある。一人の人間が生きることに関係なくはないのだ。この映画は、そのことを認識して考えてほしいと願っているのだ。だから、政治的主張など微塵も混じってはいない。 

映画の中の家族は結局崩壊していく。人生は、どんな原因によるものであれ、そうならざるを得ないときはそうならざるを得ない。しかし、家族は崩壊しても、家族としての思い出の絆は失われはしない。あの娘と従兄が、幼い時から、幾度となく屋根の上から眺めた景色は、それぞれの魂の一部となりお互いに共有されている。幼い日に一緒に遊んだことも、輝く笑顔も、さらに、父親の遺品の8ミリカメラに残されたさまざまな人々の笑顔の思い出も、彼らの心の中に生き続ける。あの娘は初恋の従兄に別れを告げ、新しい人生を歩んでいくのだろう。それはむしろ希望的ですらある。この映画は、滅びゆくもの、失われゆくものへのレクイエムであると同時に、ある再生への希望ないし願いでもあるのだ。「萌えの朱雀」という言葉には、そんな希望ないし願いが込められているように思われる。

この映画は寡黙である。しかし、この映画は寡黙であることにより、実は、現代という時代に確固たる挑戦をしているのだ。根無し草でない人や文化の確かな再生を願って…。

*萌=芽吹き 
*朱雀=中国古代の四神の一人であり、鳥に見たてられる神であるそうだが、ここでは飛び立つ鳥のイメージでとらえるのがよいように思う。


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ギャル言葉はいけないの?0706月29日)

@「今の若者は国語力がない。だから変な言葉を平気で使う。」という人がいる。
では、昔の若者は国語力があっただろうか? また、そういう評価をする人自身は国語力があるのだろうか?

A「今の若者は…」という人は「自分は正当性のあるグループの一員であり、そのグループの標準からすると、今の若者はけしからぬ」という評価をしているのだろうか?
では、その自分が属するグループとは何だろう? その正当性とは何なのか? そのグループの基準とは何?
すべて「なんとなく…」しか把握できない。つまり、その人は、自分を正当化するとなんとなく思っているものを基準にして「今の若者は…」と言っていることになる。だから、結局、今の若者は自分の気に入らないというのと同じことになる。

B「今の若者は…」という言い方は、「昔の若者」を暗黙の基準として、前者を否定的に評価するものだ。これはある時代を基準にして世界の変化は止まるという可能性と昔の方が理想的な時代であったという歴史的評価を前提にしないかぎり、成り立たない。しかし、世界は絶えず変化している。そして、それはとめようもない。また、昔が今よりもよりよい時代であったという歴史的評価が存在するわけでもない。
では、なぜこんな評価が行われるのか? それはその人が変化をやめたからなのだ。だから、変化についていけず、自分の若き日の基準に郷愁を感じ、今を否定的にとらえるのだ。

C 年齢のいかんにかかわらず、若く柔軟な頭には、魑魅魍魎の湧き出づるがごとくに、さまざまな想念が生成・消失・去来するであろう。だから、特に若者は、自分たちの言葉にちょっと工夫を加えてみる。服装、髪の毛、勉強、仕事などに工夫を加えてみるように。
こういうことができなくなっているのは、一種の脳死である。
もしかすると、若者言葉に対する非難の基底にあるものは、発想が枯渇し変化ができないため、自分が社会の変化に取り残されるのではないか、という漠とした不安なのかもしれない。

D「今の若者」を生み出したのは、「昔の若者」である。つまり、「昔の若者」は「今の若者」の原因をなす。とすれば、「今の若者」に原因を与えておいて自分には責任がないかのごとく「今の若者は…」というのは無責任ではないのか。

E若者言葉は目立つ。だから、マスコミもそれを取り上げ大騒ぎをする。しかし、この種の言葉の多くは生まれては消えてゆく。かなり表面的な現象であって言葉の体系の本体は変わらない。高度で正確な言葉は百年くらいでは変化しない。そして、それは守られていく。一方、今若者言葉を使っている若者自身も、いつまでもそんな言葉を使い続けているわけでもない。文化の崩壊など心配する必要はない。たとえば、文化大革命の嵐が吹き荒れた中国でも、中国の文化や伝統が失われたとは思えない。
 たいして問題視すべきでないことを問題視するのは本末転倒だし、マスコミなどに踊らされるのは批判力のある大人のすべきことではない。

以上のように、私は、若者言葉を若者が話すことはそれほど問題視すべきことでもないと思っている。ただ、読み書く言葉は正確で論理的であるべきだと思う。それは若者自身の責任であるというよりも、むしろ、若者にそれを教える大人や学校教育機関の責任の問題であるというべきだ。

ちなみに、私は公の場では若者言葉は使わない。しかし、飲み屋などではまねして使うことはよくある。


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えっ 加齢臭??? (08/7/17)

最近「加齢臭」という言葉をよく耳にする。幾人かのタレントがどうでもよいようなことを話している民間放送の深夜のテレビ番組や、小中学生などの間でよく使われる言葉であるように思われる。この言葉の意味は、字義に従えば、「加齢」つまり「年を加えること」によって生じる「(しゅう)」つまり「いやなにおい・くさみ」のことであると解される。

 ところで、問題は「加齢臭」というものが本当に存在するのかである。言い換えれば、「加齢臭」とは科学的法則として証明され、科学的なメカニズムが解明されたものなのか、それとも、「納豆を食べるとやせる」というような非科学的な流説に過ぎないものなのかということである。私はこの点については知識・情報を持っていない。ただ、次のようなことを指摘できる。

 第一に、私の個人的体験からすれば、幼い頃祖父や祖母に抱きついたことが幾度もあったが、そのような「臭」を感じたことはなかった。 第二に、タバコのにおいが服にしみこみ長時間経過するといやなにおいとして感じられることがある。特にウールの服は、タバコの臭いのみならず、焼肉屋、焼き鳥屋、中華料理屋などの臭いを吸着しやすいと思われる。 第三に、夏などに、汗をかいた後ある程度時間が経過したような場合には、細菌の働きにより、服などがにおうことがある。 第四に、靴などの臭いも、足と靴のすき間からもれるということもあるかもしれない。 第五に、ニンニクなどの食べ物や酒などの飲みものによっても体から臭いは出る。

 最後に、電車の中で、加齢臭を感じるという話を聞いたことがあるが、しかし、電車の中にはさまざまな年齢の人間が混在しているのであり、しかも、臭いの原因としては、以上のようなさまざまなものの混在が考えられる。したがって、その人のかいだ臭いが加齢を原因とする臭いであると決定する根拠はないといえる。

 もし、以上のような考察を経ないで、しかも、科学的な根拠無しに、安易にこのような言葉が使われるとすれば、これは実は高齢者などに対する差別といじめの要素を含んでいないだろうか。 世の中では「いじめ」が問題視されているにもかかわらず、軽薄で無責任なマスコミがこのようなことばを捏造し、それを流布したために、このような言葉に感染しやすい小中学生や若者、あるいは、批判能力に乏しい大人の間でこのような言葉が、平然と使われているとすれば、事態は見過ごしてよいものではない。


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震災でホントに日本は変わったのか?−菅降ろしを見て(2011/04/27)

震災前と後で日本は変わった、ということがいわれる。確かに経済は大打撃を受け、人々のショックも大きい。いまだに地震酔いしている人もたくさんいる。しかし、変わらないものもある。変わるべきなのに変わらないものがある。それは第一に政治だ。第二に人々の思考停止状態だ。

第一の政治について

菅直人首相をおろそうとする動きが、政界のみならず、マスコミ、さらに国民の間にまで広がっている。

確かに、菅首相の震災への対応が充分であったとはいえない。もたつきやまどろっこしさのようなものを感じたのは私だけではあるまい。

しかし、菅降ろしをするには、次の二つの条件を満たすことが必要だろう。少なくとも、国民は理性的に次の点を検討するという思考をしなければならない。単なる感情や気分でこの国の将来を決めてはならないのだから。

第一に、菅首相でなければ震災への対応が充分であった、あるいは、はるかによかったということ。

第二に、菅首相がおりれば震災への対応(震災後の対応)が充分できる、あるいは、はるかによくなるということ。

第一の点については、震災のあまりの巨大さのために、だれが首相であれ、五十歩百歩の対応しか取れなかったのではないだろうか?

また、だれであれば、どんな対応ができたというのか?谷垣自民党総裁か、石原都知事か、小沢一郎か…?そのような根拠を示した対応の提言はなされなかったではないか。また、あったのならもっと早い段階で、たとえば自民党としての震災対応のための提言などとして発表してしかるべきだったのではないか?

第二の点についても、だれが、どんな対応をするというのか?

どこかの党から、今後についての明確な説得力のあるヴィジョンが出ているだろうか?

それなしに、菅首相を降ろして何をしようというのだろうか?

少なくとも、これらの点が検討・思考されなければならない。しかるに、このような過程は一切飛ばして、菅首相に一切の責任を押し付け引きずり降ろそうとしている。ここには理性の働きが一切感じられない。国民の不安や不満をうまく利用した一種の魔女狩りや赤狩りにも似た空気を感じるのは私だけだろうか?

これは震災にかこつけた震災前の政争の再燃ではないのか? 非建設的で不毛で日本を停滞させたみみっちい政争の…。

近年の政争史を簡単に振り返ってみよう。

まず、ねじれ国会状態の下で、安倍・福田・麻生の自民党三内閣が一年ほどで倒れた。この真の原因はほんとうにねじれ国会にあったのだろうか。そうではなくて、自民党内の結束の弱さに原因があったのではないか?小泉氏が首相の座を退いたことで、締め付けが緩み一安心という気分になる。その結果、昔の派閥政治時代の自民党の感覚にもどっていたのではないか。その時代、自民党は政党としては常に多数を占めていたので、対外的な結束よりも内部的な派閥間の利害調節が重要であった。多かれ少なかれこのような(傾向の)感覚にもどり、結束を欠いたために、それぞれの内閣は強い政権運営をなしえなかったのではないか。ちなみに、麻生総理は「漢字が読めない」ということで叩かれ、この点が人気を落とす大きな原因になった。しかし、すべての人が漢字を完璧に(何を基準にして完璧性を測るのか?)読み書きできるわけではない。逆に漢字の読み書きに間違いが多いとしても、政治ができないとは言えない。問題とするなら彼の政治能力や政権の政策であるべきであったはずだ。

次に、民主党政権は、政治主導・国民生活重視という旗印のもとにスタートしたわけであるが、政治主導は官僚の能力を生かさない面が出てくるし、生活再建は財政的な裏付けがあやしくなった。特に巨額の財政赤字をかかえる日本では、子供手当てなどの歳出をともなう政策の実現は難しい面を持つ。だから、民主党の生活再建政策には、はったりでもよいからとにかく政権をとってしまえば勝ちというような強引で乱暴な手法が見えなくもない。鳩山政権の普天間基地県外移設努力は失敗し、また、事業仕分けの効果もごく限られたものに過ぎなかった。こうして菅政権は、路線を現実路線へと大きく転換しようとし、消費税に言及した。この結果、2010年の参議院選で敗北することになった。ここから民主党内の足の引っ張り合いが生じることになった。そして、そこに自民党のあらさがし攻撃が加わった。こうした政争の結果、菅政権は弱体化することになった。

他方、マスコミは政争を非建設的として厳しく批判することをしてこなかった。むしろ、政争に油を注ぐような見方や報道をしてこなかっただろうか。批判の視点を欠くという意味で。人々の多くも芸能人の離婚問題や恋愛問題に対すると同じような興味本意の見方で政争を見てきたのではないか。

このような政争を通して、日本に一体何が確かなものとして築かれたのだろうか。生じたのは混迷と停滞だけだ。

震災前に、みみっちい政争を続けていた連中の誰が震災にまともに対応できただろうか。もっといえば、政争のためのあらさがし、足の引っ張り合いに政治の時間の大半を費やしてきたために、震災対応力が鈍ったとは言えないだろうか?そんなことのために国民は税金を払っているのではない。

政治家の思考(?)は、震災前と震災後でまったく変化していないのではないか?

菅首相は、震災復興の道筋がつき、東北地方でも選挙が可能になる時期まで首相を辞めない方がよいと思う。渡部恒三衆議院議員がいうように今は政争をしている時ではない。菅首相が不十分であれば、単なる責任追及よりももっと建設的な提言をすればよいではないか。今回のような大惨事を乗り切るには、一党の考え方だけでは不十分であり、いくつかのヴィジョンを持ちより、比較検討し、建設的な議論をしつつよりよいものを作り上げることをしなければならない。

ちなみに、大連立など必要はない。そんなパフォーマンスはかえって危険極まりない。

お互いに別のヴィジョンを出し、それを議論すればよいではないか。三人集まれば文殊の知恵という。どんな馬鹿な政治家でも三人集まればよい知恵が浮かぶということだ。


第二の人々の思考停止について

「がんばれニッポン」という掛け声のもとに、多くの義援金が集まり、ボランティアに出かけている人たちもいる。

しかし、国民の思考停止状態は震災前と変わっていないようだ。

それは福島第一原発を巡る放射の拡散への異常な怖れとその半面にある風評被害に表れているように思われる。

たとえば、東京の水道水の放射能濃度が一時高まった(健康被害を生じるにはほど遠いが)ことがあった。しかし、今は問題なくなっているはずだ。しかるに、今でも水道水を飲まないという人がたくさんいるようだ。

私がここに思考停止を感じるのは、次のような理由による。

まず次のような例を考えてみよう。

たとえば、車による交通事故で数千人の人が毎年命を落としている。これを放射能被曝に換算すれば、毎年、数千人が、かつての東海村の臨界事故の時のレベルの中性子線を直接浴びていることと同じと考えることができるだろう。にもかかわらず、自動車から逃げようとする人はめったに見かけない。さらに、自動車の排気ガスは何十年か前よりはましになっているとはいえ、なおぜんそくや肺がんなどの原因になっている可能性は高い。これによる死亡の危険は放射能の被ばくによるものと比べてどのくらいであるのだろうか。しかし、そんな心配はしないで、子どものいる家庭でも平気で車をもっている。あるいは、一家の便利な移動手段として車を持ちたがるのではないか。タバコの肺がんリスクの危険性は極めて高いにもかかわらず、アスベストのようには禁止されない。タバコの煙を迷惑と思う人はいても、たばこの煙から50メートルも避難する人となると稀であろう。もしタバコを吸いながら、水道水の危険性を心配する人がいたとしたら、それは不思議なことだ。水道水に話を戻して考えた場合にも、水道水に含まれるにいたった放射性物質はまず大気中に漂い雨によって地上に落下し、川に流れ込んで水道水に行きついたものである。水道水を飲まずとも、大気は一日中呼吸しているのであり、水道水を恐れるなら、大気も恐れなければならない。

他方、放射能は、限界は微妙とは言え、どの程度の線量を浴びても大丈夫かの目安は統計に基づき立てられている。そして、国以外の機関によっても線量の監視はなされている。にもかかわらず、データをもとに判断しようとしないでむやみに恐れる人がいる。

問題は、なぜこのような比較や疑問を持たないで、ただむやみに「こわい」という反応を示すのかということだ。

これは判断と推理という理性の働きつまり思考によって物事をとらえていないからである。物事を本能でとらえ、野生の動物がいつもびくびくしているのと同じような状態になっているのだ。

人間は、知識・思考力を持ち、情報がある限り、自分の状況を理性的に判断できるはずなのに…。

放射能問題では本能的行動に回帰してしまっている人が多い。

これが思考停止だ。

この思考停止は原発事故の結果生じたものではない。 思考停止はすでに選挙の浮動票となって現れていた(いや、もっといえば、何十年か前からいろいろな所に表れていた)。2005年の小泉郵政選挙でも、2009年の民主党政権誕生の選挙でも、さらに、2010年の菅首相の消費税発言で民主党が負けた選挙でも、浮動票の役割は大きかった。思考停止の浮動票をどう動かすかが選挙の勝敗を決める。

民主主義の原理は、国民一人一人が自分で判断して投票することが本則でなければならないのに、国民の大きな部分が政治の操作の対象となってしまっている。

この思考停止状態は、震災前も震災後も続いている。

そしてまた菅降ろしの政治がそれを利用しようして、震災前と同レベルの政争を再燃させようとしている。

いま日本人に必要なことは、考える力なのだ。

バカでアホな政治家は津波で脳味噌を洗ってきた方がよいのではないか?


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