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手紙

目次 1 S.Y.様へ   2 勉強に身が入らない新6年生の君へ。   
    3 1月受験で小さな失敗をしたHさんへ    4 友人Yへ   
    5 「学習指導要領が変わりましたが、それについてどのように思われますか?」との質問に答えて。   
    6 Gさんへ   

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S.Y.様へ(1年生のお母様)

 前略

  私が一年生の国語の勉強についてアドバイスできるかどうかについては疑問がありますが、いくつか思いつく点について述べてみたいと思います。

  第一に、国語のみならず、すべての科目について勉強の習慣をつけることが必要だと思われます。ただし、その方法は、時間を決めて机に坐らせるというような押し 付けではなく。お父さんやお母さんと会話をしながら、その勉強の内容を自然に身につけていくというような方法が望ましいと思います。塾など通わなくても、三年生ないし四年生くらいまでは、このような方法で充分に力をつけることができると思います。むしろ、無意味に塾など通うがために、かえって成長を阻害されている 子どもが多いように思われます。「助長」の故事はこのことを表しています。

 第二に、音読、書き写し、漢字練習、日記、作文、読書などが、国語力をつけるために役立つことは確かだと思いますが、これらをただ子どもにやらせようとしても、効果は乏しいか、むしろ、逆効果になることの方が多いのではないかと思います。

 たとえば、音読であれば、お母さんが上手に読んでやった後に読ませるとか、お母さんの後をを追って読ませるとか、あるいは、二人で読み比べをするとか、そういうふうに子どもにとって楽しい方法を工夫すべきではないかと思います。また、あまりたくさんの量を読ませることによって子どもを疲れさせるというようなことも避けるべきでしょう。

 たとえば、漢字練習であれば、やはりいっしょに練習してやるのが良いのではないかと思います。ただ書かせようとしないで、こちらも書くということです。

 たとえば、文章の書き写しであれば、お母さんが音読してやり、それを書き写させるとかの工夫が必要でしょう。

 日記、作文などについても、子どもの話を聞いてやり、それを書かせるというような方法を採るべきでしょう。また、上手に書かせようとして書いた内容をいじくりわすというようなことも避けるべきでしょう。

 読書についても、お母さんが読んでやるということも大切だと思います。また、書いてあることについて、「ころんだのはだれなの?」とか、「どうしてリカちゃんはないたの?」とか当たり前のことを質問してやるのも良いと思います。また、子どもの話を聞いてやり、それが大人の目から見れば、明らかにまちがっているものであっても無理に矯正しようとしないというようなことも大切だと思います。

 以上のような方法には、過保護になるのではないかとの懸念がつきまとうことになりますが、子どもの意欲を引き出す限度で親が関わる限り、必ずしも過保護の結果になるとは言えないと思います。また、コミュニケーションを通して自立の大切さを教えていくこともできます。

 さらに、勉強以外の他のしつけの面で自立性を養うということもできると思います。

 ちなみに、古いイタリア映画の「自転車泥棒」や「鉄道員」が、親と子の関係、家族というもののあり方についてある種の示唆を与えてくれるように思います。


                                                                                              草々

 99年2月11日        


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勉強に身が入らない新6年生の君へ。

 


努力するも、しないも、君の自由だ。だから、努力するのがいやなら受験をやめればよい。努力しないでのんびりと生きるというのも一つの生き方であり、それはそれとして尊重されなければならない。また、努力したからといって、特別にえらいわけでも何でもない。

ただ、努力には、次のような意味がある、ということに注意してほしい。

 第一に、忍耐強さや集中力をきたえるという意味がある。これは自分の限界と思われるところを越えていくときに飛躍的に高まるものなのだ。

 第二に、努力は人生上の問題を可能な限り科学的合理的に処理しようとする態度を育てる。なぜなら、努力は無数の実験を繰り返すことと同じだからである。そこからは無数の成功・失敗・問題などの情報が得られ、その集積は合理的な方法の工夫へとつながるからだ。

 第三に、上のような情報の蓄積は、いわく言いがたい直感力、いわば、「職人的勘」とでも言うものを育てる。それは、将来君がさまざまな困難に直面し、それを越えていかなければならないときにきっと役立つものなのだ。

 第四に、努力はある物事ととことんかかわるということであり、これにより、自分とはどのような人間なのかということを知っていく意味がある。この探求は一生涯続けるべきであろう。

 受験というものも、真剣に取り組めば、以上のような努力の意味を知るための一つの大切な経験となりうるものなのだ。

 もっとも、今の君にこのようなことを言っても、その心に響かせることは難しいのかもしれない。私自身がかつて、君と同じように、人生の先輩の心を込めたことばをいくつも無にしてきたのだから。しかし、今その先輩たちと同じくらいの年齢になってみると、やはり私は君に言わなければならない。

君は、「受験」、したがって、「努力」という道を選ぶのか。それとも、「努力」などしないで、「のんびり」生きる道を選ぶのか。自分で選ばなければならない。

                                                              草々      
 

98年6月18日   




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1月受験で小さな失敗をしたHさんへ


 

―はじめて小鳥がじょうずに飛んだとき

森ははく手かっさいした― (原田直友)



  

恐れることは何もありません。未来にあるものは希望と可能性です。

それに向かって生きるのに、何を恐れる必要があるのでしょうか。

ただ全力をつくせばよいのです。


過去の小さな失敗にこだわってはなりません。それはもはや過去のことにすぎません。

180度目を転じるだけで、希望と可能性の無限の空が広がっているのです。


人は未来に向かって意志的に歩きつづけなければなりません。未来を切り開くという人間を人間たらしめる営みを行うことで、私たちは真の意味の人間となりうるのです。

魔女のキキは再び空を飛べるようになりました。あなたも、今夜はよく眠り、明日の朝、試験場で静かに何者かに祈り、全力をつくすことで、再び自由に空を飛べるようになると思います。


応援しています。飛びなさい。思い切って。



99年1月31日 



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友人Yへ


 前略

 昨晩は楽しい時を過ごすことができました。ありがとう。やや二日酔いぎみの頭でこの手紙を書いています。



 RCサクセションというロックグループのリーダーで「忌野清四郎」という人がいます。


 ぼくはこの人のことはほとんど知らないのですが、「大学ノートの裏表紙に、サナエちゃんをかいたの…」という曲がヒットしたのが、1970年ころだったと思いますので、彼はたぶんこの名前を20歳前後で付けたのではないかと思います。

彼の独特の音楽もさることながら、20歳くらいでよくこんな前をつけることができたものだと、感心させられます。

この名前には、人生というものが死に裏打ちされたものであるっことをしっかりと見据え、人生を楽しもうという悟りのようなものが感じられます。

20歳前後のぼくは、「死」というものについて何かの本を読んで概念的・抽象的に論じるというようなことはしましたが、自分の人生や死というものを自分の目で見つめてはいませんでした。

当時の自分の議論は、借り物の知識を用いての傲慢な自己主張を目的とするものに過ぎなかったのです。

しかし、そんなぼくにも最近は人生の意味のようなものが少しはわかりかけてきたように思います。

「一期一会」という言葉の意味もやっと最近わかってきたように思えるのです。



一期一会


―ありがとう  さようなら


今日君に会えたから


明日はもう君に会えないかもしれないから


人生のすべての意味を背負うこの言葉だけれど、


気軽に言おう


―ありがとう  さようなら 




 では、また…。




02年8月25日   



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学習指導要領が変わりましたが、それについてどのように思われますか?」との質問に答えて。



 私はなんとも思っていません。

勉強→学校→学習指導要領というラインで考える人にとっては、学習指導要領の変更は重大な問題でしょう。

しかし、「勉強は自分でするもの」と考える人にとっては、何の問題もありません。

たとえば、ピアノを本気で習おうとする子が学校の音楽を基準に勉強するでしょうか。

答えは明白に「ノー」です。

国語、算数、理科、社会などについても同じことが言えます。

勉強したければ、図書館、学習参考書、塾、テレビ、インターネット、などきわめて多くの勉強の機会が与えられています。

ですから、本当に勉強したい人は、学校など問題にしないで、どんどん自分で勉強していくはずです。

したがって、学習指導要領の改訂など「どこ吹く風」ということになるのです。 

ファーブルや南方熊楠ではありませんが、勉強の原動力は「知りたい」という個人の意欲であり、学校はこの個人の意欲を啓発し促進する限りにおいて、存在価値を持ちます。

逆にいえば、そのような働きをしない学校など税金の無駄遣いに他なりません。

では、今日までの学校はというと…?そのような働きはしていないと多くの人が思うのではありませんか.。

学習指導要領や教育委員会、黒幕の文部省などを排して、各学校に独自の活動を認めること、現場教師に独自の授業をさせること、学校や教師の選択を生徒の自由とすること、これによりダメ学校やダメ教師は淘汰されるようにすること、大雑把に言えば、学校制度には、このような過激な改革が必要だと思います。


 私は、塾経営者ですから、学校の理想像などにはあまり関心がないのですが,塾なら当然つぶれるだろうような経営をしていて、ちゃんと存続できるというのはどこかおかしいのではないかと常日頃思っているわけです。

銀行にしてもダイエーにしても不思議ですね。どうして存続できるのかナゾです。


 学習指導要領改定に関する大騒ぎの根本には、国家主義か、個人主義か、という問題が横たわっています。

「国家が何かしてくれる」と思っている人たちにとっては、指導要領の改訂は重大問題になるでしょうが、「国家など基準にすると正直者や弱いものが馬鹿を見る」と思っている人々は、元来国家を相手にしていないので、「まあ、勝手にやってください。」程度にしか考えないのです。


 春期講習中で忙しいのですが、ついたくさん書いてしまいました。さあ、仕事!シゴト!



02年4月3日       



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Gさん



旅のはなむけに、私の詩をお贈りします。

たった三行の詩ですが…


***********


渡り鳥


人は渡り鳥なのです

幾多の渡りをくりかえして

はるかなふるさとへと帰っていくのです



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「ふるさと」とは、「本当に自分自身であるもの」というような意味です。

人生はそれを求めての旅ですね。

まだGさんの旅も「ヨロク」などではありません。

むしろ旅本番の道中であることを私に教えてくれます。



お気をつけて。

See you again!



09年4月22日


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