鈴木国語研究所は「詩」の読解ということをどのように考えているのか?
     一つのサンプルを示してみました。

       二つ目のサンプルを追加しました。
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1 初めに

鈴木国語研究所の授業で、詩を取り上げる機会は多いとはいえません。それは、受験ということを考えた場合に、論説文や物語文の授業をする代わりに、詩の授業をすることがどれほど効果的か、といういわば「費用対効果」の問題があるからです。また、いくつかの詩を取り上げて授業をしたくらいでは、詩は読めるようにはならないという問題もあるからです。

しかし、私自身は、たとえば、高田敏子さんの「詩の世界」に関しても何枚もの読解演習のためのペーパーを作ってありますし、金子みすさんやまどみちおさんなどの詩に関してもたくさんの読解演習ペーパーを用意しているわけです。また、私自身も時々「詩」を書きます(sample1/2/3/4)。特に発表するわけではありませんが。

     

そこで、今回は、論理重視で、一見詩などには見向きもしないかに見える鈴木国語研究所が、詩の授業をするとすれば、どのような方法をとるのか、ということの一部をここに示してみようと思うわけです。それは、詩の読解においても論理ということがどれほど重要かということを示すことにもなります。

 

 なお、最初にお断りしておきますが、鈴木国語の授業は、基本的に硬い授業であるということです。軽いノリの授業などで読解力をつけようというのは、おそらく95パーセント以上間違いです。そういう風にして力(?要領?)をつける人もいるかもしれませんが、たいていの人は、そんな風なやり方では力がつかないでしょう。それは、この世のたいていの人は、まじめに働いたほうがよいのと似ています。

 

まず、鈴木国語的観点からすれば、詩の読み方を生徒に教える場合の基本方針は、次のようなものになります。

 

@ 詩はある感情ないし思想を描くものであるが、そのような主題は、言葉のもつ音楽性と映像喚起機能によるイメージを通して描かれる。その意味で詩ないし詩の言葉の解釈は、そのイメージの読み取りを意味する。しかも、イメージは広がりをもつ。したがって、イメージの読み取りは「想像力」の力を借りることになる。

 

A ただし、詩の言葉や言葉の関連、詩の構成、表現の工夫などは、あるイメージを読者に想起させるためにそれしかないとして選択されたものである。したがって、詩の解釈は、詩の読解であり、詩をきっかけにして勝手に想像したことを言いたい放題に述べることではない。詩の言葉や言葉の関連、詩の構成、表現の工夫などに根拠を持つ解釈がなされなければならない。

 

B 詩では表現技法が用いられるが、表現技法の名前と効果を抽象的な形で教えても、詩を作ることもできなければ、詩を解釈することもできない。表現技法から演繹的に詩作や詩の解釈ができるものではなく、個別具体的な詩作の工夫・技術を一般的に類型化すると、いくつかの詩の表現技法というものが帰納されるにすぎない。したがって、詩の解釈は詩の文言を手がかりに個別具体的になされなければならない。

* そのようなトレーニングを、いくつもの詩を通して、積み重ねる必要があるので、受験目的の授業で詩を

取り上げることは非常に難しいのです。

 

D 詩の種類を、叙情詩・叙景詩・叙事詩、口語詩・文語詩、自由詩・定型詩などと教えることがあるが、そんなことを覚えさせても、詩の解釈にはまったく(と言っていいほど)役に立たない。

* ただし、試験に出る限りで、覚えることは否定しない。きわめて短時間で能率的に身につけさせるべきです。

 E 音読・暗唱は、詩の読解の前提として、また、特に精密に解釈した後に、徹底的にしたい。

 

 


2 詩の解説文

高田敏子さんの有名な詩「忘れもの」を題材として、詩の解説を書いて見ました。
  「詩」というものを、どのように読むべきかのサンプルを示したつもりです。

「忘れもの」という詩は、ポプラ社のポプラ・ブックス「詩の世界」(高田敏子)二百六十八ページに載っています。

ここでは詩の各部分を「引用」することしかできませんから、詩は自分で本を買って読んでください。

 

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3 「忘れもの」の解説文

 

この詩の中心は第三連にあります。なぜなら、ここに「ぼく」の気持ちがはっきりと描かれているからです。現代の詩は感情や気持ちを歌います(叙情詩)から、感情がもっとも強く表されるところに詩の中心があります。

また、この詩は、四連からなり、典型的な「起承転結」の形になっていることに気づいてください。「起承転結」というのは、文章を、「書き出し」「それを受ける部分」「話題を転じる部分」「結びの部分」という四つのパートで組み立てる文章の組み立て方です。四コマ漫画の組み立て方がこれに当たります。こういう場合、一般に、「転」の部分にもっとも盛り上がる部分がくるのです。

第三連では、「ぼく」(第四連)が、夏休みを友だちのように扱い「キミ」と呼びかけているのですから、夏休みは親しい友だちであるのです。まず、「夏休み」の「ぼく」にとっての意味をしっかりおさえてください。そんな親しい友だちである「夏休み」は「行ってしまった」のですから、もうもどってはこないはずです。それでも「もう一度もどってこないかな」と呼びかけているのです。それは夏休みに行ってほしくなかったと思う気持ちからですね。つまり、夏休みのことを名残惜しく思う気持ち(夏休みへの未練の気持ち)が表わされます。

これがこの詩の描こうとしている主題です。この点を、まず、しっかりとおさえます。

 

しかし、これで終わってしまってはこの詩の味わいは薄っぺらなものになってしまいます。この詩の描くイメージの広がりを、この詩の読解として味わうことが必要です。

今度は第一連から詳しく見ていきましょう。

*「連」というのは、文章の段落のようなものです。詩の場合には行がいくつか集まっているので「連」というわけです。

 

第一連で、作者が伝えようとしているのは「夏休みはいってしまった」ということです。しかし、それならなぜ、「夏休みが終わった」としないのでしょうか。ここがニュースと詩の違うところです。ニュースの目的は事実を伝えることですが、詩の目的は、事実をきっかけにして得た感情や感動などの気持ちを伝えることだからです。そこで、事実がそのような感情や感動などの気持ちを伝える形でイメージされるように工夫がなされることになります。

では、どんな工夫がなされているのでしょうか。

 

まず、ここでは、「夏休み」を「ぼく」の親友であるかのようにあつかうこと(擬人法)で、「行ってしまった」その親友のことを名残惜しく思う僕の気持ちが描かれることになります。

 

この点をさらに細かく見てみると、まず、「夏休み『は』」と「夏休み」を他のもの(人)と区別して取り立てる表現になっていることにも注意してください。また「いってしまった」と完了の表現になっていることに注意してください。「夏休み」という特別な人が、いってほしくはないのに「いってしまった」という夏休みへの別れがたい気持ちが表されます。

そうすると「行ってしまった」の読み方も残念そうな感じで読むのがよいということになります。

 

次に、第一連では、「二」行目に対し、「三、四」行目が倒置されています(倒置法)。ここでは「夏休みはいってしまった」ということが前面に押し立てられる(強調される)とともに、三、四行目が余情をもってそのときの様子を回想する感じを持つことになり、名残惜しい感じが出ることになります。倒置法の働きは、一般に、倒置されるものを強調する点にあると言われますが、実際の詩の中では後置される部分が余情を引く働きもすると言えます。

 

第三に、「入道雲にのって」「素晴らしい夕立をふりまいて」ということから、夏休みと「入道雲」「夕立」が結び付けられていることに注意してください。夏の代表的な風物の「入道雲」「夕立」で、読者の「夏休み」というものの記憶やイメージを鮮明にしようとしているのです。難しく言うと、「入道雲」「夕立」を夏休みの象徴(シンボル)にしているのです。

 

そして、「入道雲」「夕立」からは、雷様が連想されることにも注目しましょう。この雷様は、「『サヨナラ』のかわりに」「素晴らしい夕立をふりまいて」行ったのですから、かなりスケールの大きな面白いいたずらを思いつくいたずら坊主のイメージが浮かびます。夕立の際には雷も散々鳴らし、稲妻も走らせるでしょうから、暴れん坊のいたずら坊主でもあるようです。夏休みは子供たちを勉強から解放します。子供たちはいたずら坊主になり、暴れん坊になります。夏休みは子供たちに思い切り遊ぶ機会を与え、想像力や創造力のような気持ちの豊かさをはぐくむ機会でもあったのです。夏休みはそういう意味で「ぼく」の親友であるのです。ここでの「夏休み」はそういうものとしての「夏休み」としてイメージされます。難しく言うと、作者はそのような「原風景」としての夏休みがイメージされることを意図していると言えるでしょう。

* 塾に生徒を拘束しておいてこういうことを言うのは若干後ろめたいのですが…

  原風景=あるイメージの原型となるような記憶

 

最後に、「素晴らしい夕立」は、「行ってしまった」夏休みが「サヨナラ」のかわりに「ふりまいて」行ったのですから、この夏最後とも思えるような夕立です。夏も終わりです。そういうこともイメージさせます。

 こうしてみると、第一連だけでも、ずいぶんと豊かなイメージを思い浮かべることができます。

 

第二連に行きます。

 第二連では、「ぼく」は朝の空を見上げ、木々の葉を仰ぎ見ています。ここには「ぼく」の目があることに注意してください。「ぼく」の目は空の色、光、木々の葉をとらえます。91日の始業式の日、「ぼく」は朝起きて家の庭に出てみたのでしょう。では、「ぼく」の目はそれらをどんなふうにとらえているでしょうか。

 

「けさ 空はまっさお」とするのと、「けさ、空はまっさおだなあ」とするのとを比べてみると、「まっさお」でとめる方が、その後に「!」が打たれたような感じがして、かえって感動がよく表現されます。また、青い空のイメージもくっきりと浮かび上がるように思われます。ぼくの目は昨日までとどこか違う空の色に新鮮な驚きを感じているのです。このように行を言い切りの形にしないで、名詞でとめることを体言止とか名詞止と言います。
 * もっとも、これは厳密には「まっさおだ」という形容動詞の語幹「まっさお」を用いたものですが、体言止と実質的には変わりません。

 

木々の葉の一枚一枚が」「あたらしい光とあいさつをかわしている」として、木々の葉の一枚一枚とあたらしい光はともにさわやかな気持ちを持った人たちのように描かれています。これは擬人法ですね。

 

新学期の初日の登校日の朝、昨日までと少し違う色に見える真っ青な空を見上げると、木々の葉の一枚一枚が反射している光も、昨日までの夏の陽光とどこか違い、新しく新鮮でさわやかな感じがします。「ぼく」の目は、昨日までとは違う季節の変わり目のようなものを感じ取り、それを新鮮でさわやかなものとして歓迎しているのです。第二連はそういうイメージを浮かび上がらせるために、体言止や擬人法を用いたのです。

 

ところで、この詩では、「対比」という表現技法が使われています。第一連と第二連が対比の関係にあります。第一連で描かれているのは、「入道雲」「夕立」に象徴される夏です。これに対し、第二連に描かれているのは、新しい季節つまり秋の始まりです。この対比も新しいさわやかな季節の始まりをはっきりとイメージさせます。

 

でも、「ぼく」は、完全に気持ちが切り替わったわけではありません。むしろ、まだ夏休みへの未練の気持ちは多分に残っています。まだ鳴いているせみの声を聞いても、ポンと置かれたままの麦わら帽子を見ても、夏休みがもっと続いたらいいのになぁ、と思います。海辺での波の音もまだ聞こえているような気がします。海辺での遊びのことばかり考えてしまいます。

 

そこで、第三連の夏休みへの呼びかけがなされることになります。

「だが キミ! /夏休みよ もう一度もどってこないかな」と。

「だが」は、第二連で見たように、ぼくが新しい季節の始まりを認めていることを前提とします。つまり、もう夏休みがもどってこないことはぼくには充分にわかっているのです。その上で、「だが」というわけですから、夏休みへの未練は相当に強いのでしょう。

 

「九 」行目と「十」行目とが倒置されています。ここでは「もう一度 もどってこないかな」ということが強調されます。ぼくの一番言いたいことなのですから。倒置法は一般にはこのように倒置されるものを強調するのですが、ここではむしろ「忘れ物をとりにさ」を後から付け加える働きをしていると解してみてはどうでしょうか。「もう一度 もどってこないかな」と呼びかけるために、何とか思いついた「忘れ物をとりにさ」という口実を後から付け加えたというふうに解するのです。そうすると、ここでの倒置法の意味は、この口実を付け加えることのおかしさ、ほほえましさを表わすことにあるようです。

 

 

第四連。ここでは忘れ物とされるものを数え上げています。

 

セミは新学期になっても昨日までと同じようにき続けていますから、「迷い子」が、遊園地やデパートの売り場などで「き続けるのと似ているといえます。そこで「迷い子(まよ    )のセミ」と擬人化したのですね。それと同時に、「元気なセミ」ではなく、「迷い子のセミ」としたことで、夏休みが終わっても、夏休み気分がぬけきらない「ぼく」の途方にくれたような気持ちや何となくさびしい気持ちが反映されているようにも取れますね。

 

「迷子のセミ」と体言止にしたのは、忘れ物を数え上げるのと同時に、「迷子のセミ」のイメージをくっきりさせる働きがあり、これによって、9月になってもまだ鳴き続けているセミのイメージがくっきりとします。セミの鳴き声まで聞こえてくるような気がしませんか。

 

 また、麦わら帽子は、もう毎日、日中にかぶられるということはなく、ポンと置かれたままになっていますから、「さびしそうな」と擬人化されるわけです。でも、「さびしい」のは、夏休みが終わってしまったことに対する「ぼく」の気持ちなのですから、やはりその「ぼく」の気持ちが麦わら帽子に反映されているわけです。

 

「さびしそうな むぎわらぼうし」というリズムは6音+7音で比較的長く柔らかい感じがします。そして、体言止で、麦藁帽子が浮かび上がり、余情が伴います。たぶん麦わら帽子は縁側の廊下におきっぱなしなのでしょう。遊びから帰ってくると、そのまま縁側の廊下に置き、翌日またかぶって出かける・・・。でも、今日からはもう…。明るい庭から縁側に目を移したぼくはそんな気持ちで麦わら帽子に目をとめているのです。

 
* もっとも、庭から、濡れ縁、廊下、茶の間と続くような日本家屋はほとんどなくなってしまっていますから、イメージの浮かばない人もいるかもしませんね。

 

 さらに、昨日まで海辺で遊び放題に遊んでいたぼくは、その気分を簡単に切り替えることはできません。頭の中は昨日までと同じように海辺モードです。そこで、「ぼくの耳にくっついてはなれない波の音」となるわけです。つまり、この表現によって、海辺気分の抜けきらないぼくの気持ちがあらわされているわけです。

 

「ぼくの耳に/くっついて離れない波の音」では、「波の音」の後に消え残るものがあり、波の音が聞こえているような感じがします。「波の音が聞こえる」とやってしまうとこの感じは出ません。「が聞こえる」を切ってしまうと、人間は「波の音」を想像するのです。

つまり、体言止めは、後に続く言葉(説明)をあえて切ってしまい、そのものの名前を述べるだけにすることで、イメージや印象を強めたり、人間の想像力を働かせたりする表現技法であるといえます。

 

この「ぼくの耳に/くっついて離れない波の音」は「麦わら帽子」に目をとめたぼくの耳に聞こえてきたと考えることもできるでしょう。ぼくの耳よみがえってきた「波の音」がぼくの耳にくっついて離れないのです。

 

 ところで、これらは夏の名残を残すものであり、「いってしまった」「夏休み」が置いていったものとも言えますから、第三連で「忘れもの」とたとえたわけです。「忘れもの」は取りにもどることが期待されるわけですが、そういうことがないことはぼくにもよく分かっています。わかっているけれど、でも…、といういかにも子供らしいほほえましい未練の気持ちが浮かび上がります。最近亡くなった植木ひとしさんという俳優が、昔、「わかっちゃいるけど やめられない」と、お酒飲みの気持ちを歌った歌をヒットさせましたが、どこかこれに似たおかしさすら感じられます。

 

 いま「でも…」と書きましたが、詩では「だが」ですね。「でも」と「だが」は感じが少し違います。「でも」は、どこか消極的な感じ、弱弱しい感じがしますが、「だが」はきっぱりとしていてるような感じ、強い感じがします。そうすると、「だが」に続く「もう一度戻ってこないかな」という「夏休み」への提案は、ぼくの中にこらえきれない衝動として突然沸いてきたとも言えますね。ぼくは思いつくままに「夏休み」に対して「キミ!」と提案したのです。昨日までと変わらないような「セミ」「麦わら帽子」「波の音」がぼくの中にこういう衝動を生み出したのでしょう。

 

この詩の全体をもう一度読み返してみましょう。一連と二連の対比、第三連への転換、そして第四連で余情を残して終わる、いわば「対比と転換のメリハリと余情」からなる見事な音楽性のある詩であることに気づいてください。起承転結というのは音楽性を生み出す一つの形式であるともいえます。

 

 *ちなみに、第四連について説明した後に、第三連にもどって再び説明しました。なぜこんなまどろっこしい説明の仕方をしたのでしょうか。詩は芸術です。芸術は作者が渾身の力を込めて創造したものです。したがって、それを理解することは一朝一夕にできることではないのです。詩の場合なら、読者は、その詩を何度も読み返し、その内容を次第に発見していくしかないのです。このようにみていくと、入試に詩を出すということは本当に可能なのか、という疑問に行き当たります。しかし、入試は人間の世界の通過儀礼(儀式)のひとつですから、基本的な知識と一応の理解を問うのみで足りるとも言えるのです。



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 2007/5/17 All Rights Reserved by Suzuki-Kokugo-Kenkyuzyo

 
工藤直子「日記」について

かつて桜蔭中学校で工藤直子の「日記」(「あ・い・た・く・て」大日本図書)という詩が出題されたことがありました。

詩はここに引用できませんから、自分でさがして読んで下さい。ネットで引用しているブログなどもたくさんあります。

 

この詩を「日記」の形で翻訳してみました。

この詩の解説も書いてみました。こちらは論理的な解釈なので、「詩のよさを損なう」と思う人もいるかもしれません。

しかし、「詩」は「詩」、「論」は「論」ですから、両者はお互いに相容れないものではないと思いますが…。

 

「日記」の形への翻訳

私は、今日一日海辺で遊びました。

お空にポッカリ浮かぶ雲を、アイスクリームのようだとか、犬みたいだと言って、はしゃぎました。潮の香りのする風に吹かれて、ぬれた体をかわかしました。横歩きのカニさんをからかったりもしました。飛び交うカモメをつかまえてやろうとジャンプしたりもしました。

 でも、もう夕方です。太陽は海に沈もうとしています。波がしらが夕日を受けてキラキラ輝いていて、とてもきれいです。そんな海に、小さな島がぽつんぽつんといくつか浮かんでいます。そんな景色を見ていると、今日一日の楽しかった出来事がいろいろと思いだされます。

 そう、夕方の海は太陽の日記帳なのです。今日一日の……楽しかった思い出の……

 私はもう一度海を見渡し、夕日にくるりと背を向けてお家に帰ります。今日はこれでおしまいです。

 

 

この詩の解説

 まず、頭に浮かぶのは夕方の海の景色である。いく筋もの波が波頭に夕日を受けて輝いている。この景色は横文字で書いた日記帳の一ページのようにも見える。そこで、夕方の海は、太陽が光の文字で、海に書く日記帳であり、小さな島々は、句読点であると見ることになる。

 しかし、このような解釈では、この詩の終わりの三行がうまく説明できない。なぜ、太陽がもう一度海を照らし、ぱたりと「今日」のページを閉じるのか。太陽が一度沈んだ後、もう一度顔を出し、それから突然しずみ、夜が来る、というようなことは現実には起こらない。では、何を歌うためにこのような表現をしたのか。

 思うに、この詩は、夕方の海の「景色」を歌ったもの(叙景詩)ではない。夕方の海を見ているときの作者の「気持ち」を歌ったもの(叙情詩)である。

 すなわち、夕方の海に太陽が沈んでいく様子を見ていると、今日一日の海辺での楽しかったいろいろなできごとが思い出される。そういう気持ちを、夕日が沈んでいく海の景色に映して(景色を借りて)、「太陽の日記帳」と表現したのである。作者は海に浮かぶ島々に目をやった後、もう一度夕焼けに染まる海を見渡し、夕日にくるりと背を向けて、帰っていく。これが終わりの三行の表していることである。

 

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 2012/6/28 All Rights Reserved by Suzuki-Kokugo-Kenkyuzyo


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