右脳読みか?左脳読みか?           


              
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右脳を使った速読ということをよく耳にする。すなわち、人間の脳は左脳と右脳からなり、左脳は言語などを処理する論理脳であり、右脳はイメージなどを処理するイメージ脳であり、この右脳を活用することで、驚異的な速読が可能になると。

この点について次のように考える。(04/1/6)


文章には、大別して、内容の具体的なものと内容の抽象的なものがある。物語・小説、具体的な事実報道する新聞記事、身近な事実や技術を説明した文章は、概して具体的な内容を持つといえよう。これらに対し、いわゆる論説文や専門的な文科系の論文などは抽象性が高いといえよう。そこで、論説文の場合と小説の場合に分けて考察してみようと思う。


 論説文は、原則的に論理からなっている。「論理からなっている」というのは、ある問題に対し解答を与えるということを、判断と推理を重ねることによって行っているということである。「原則的に」といったのは、論理が不十分であるものや論理のすり替えがあるものもあるからである。

 論理とは、概念の一致不一致の判断と、ある概念から他の概念をみちびく推理とを言う。たとえば、「私は日本人である。」というのは、「私」が「日本人」という概念の中に包摂されているという判断である。また、たとえば「私は中学生である」という判断からは「私は小学生ではない」という判断が直ちに導かれる。これが直接推理である。たとえば、「人間は動物である」「私は人間である」ゆえに「私は動物である」という三段論法のことを間接推理という。

 論説文が、論理から成り立っているとすれば、その読解も論理的なものになる。したがって、ある文章を読解するためには、まず対象となる文章の形式論理をたどらなければならない。これなしには、そもそも文章を読んだことにならない。形式論理をたどらないで、文章に目を通しても、それは文章を「見た」というのと大差ない。

 しかし、文章の形式論理をたどっただけでは、「読んだ」とは言えるとしても、「解した」とはいえない。「解した」つまり文章を理解したといえるためには、そのテーマとされる概念の内容を理解しなければならない。これは自分のもつ知識と経験を総合したイメージ力の問題である。したがって、論説文の読解には知識や経験という人間の内容的部分が不可欠である。たとえば、恋愛論は恋愛の経験無き者には何の意味ももたない。

 もちろん実際の読解の過程では、形式論理の把握と概念内容の把握とは、同時進行的に、相互依存的に、弁証法的に行われうる。つまり、文章の形式論理を追いながら、同時に内容を把握をするということは我々が文章を読むときに普通に行っていることである。

 ところで、論説文の論理を追うのは論理脳である左脳の働きである。これに対し、概念内容をイメージするのは右脳の働きである。したがって、論説文の読解は、左脳と右脳の両者の働きなくしてはできない。しかもこれはまったく独立した分業ではない。左脳で把握された概念は右脳でイメージされ、右脳のイメージは左脳の判断力や推理力を助けるというように、両者は、同時的、相互依存的、弁証法的に働く。

 ゆえに、論説文の読解は左脳と右脳の協働によってなされるのであり、右脳のみによって読めるかのごとき考え方は誤りである。


 では、小説などの物語文ではどうだろう。

 小説の各場面は、基本的に「いつ、どこで、だれが、どうした」という事実からなる。「基本的に」と言ったのは、登場人物の議論などには抽象度の高い論説系の内容を持つものが多くあるからである。しかし、場面を基本的に成り立たせているものは事実であるから、この事実は右脳でイメージとしてとらえられる。

 もっとも、小説は、漫画や映画などの映像情報と異なり、文字情報からなるので、その文字情報は、まず左脳でとらえられるはずである。ただ、その文字情報によってとらえられた事実に関する情報は、事実であるがゆえに、即右脳でイメージできる。だから右脳のみでイメージしているように錯覚されやすい。しかし、必ず左脳を通しているのである。

 したがって、小説に描かれる事実の把握の段階でも、左脳は働いているのであり、右脳のみによって理解できるかのような見解は誤りである。もっとも、この段階では、実際上は右脳のみを使っているように錯覚してもいっこうに構わない。それほどに事実の情報はイメージしやすいものであるのだから。

 しかし、このように小説の事実をとらえただけでは、小説を読解したことにはならない。せいぜい「読んだ」というに過ぎないのであり、「解した」とまではいえない。

 小説を「解した」つまり「理解した」といえるためには、そのテーマを把握しなければならない。このテーマは小説の完成度が高ければ高いほど、概念として提示されるはずである。たとえば、「愛」「運命」「生」「死」というような抽象概念の形をとる。小説は、その抽象概念の内容をなす一つの人生・一人の人間の生き方を描くものである。したがって、小説のテーマを解するには、小説に描かれた事実からテーマとなる概念を抽象しなければならない。

 ここで小説のテーマの把握は、具体的事実からの概念の抽象という作業となることが分かる。これは右脳による具体的事実のイメージを左脳によって抽象化・概念化する作業である。したがって、両者の協業が必要となる。この作業は、その小説を何度も読み返すという時間のかかる作業を必要とする場合が多いと思われる。

 
故に、小説を右脳だけで読むというのも誤りである。もっとも、その小説に何が書いてあった、という事実情報を得る(そして、誰かとの話題にする)というためには速読にも意味があり、可能でもあろう。ただ、そのような読書態度においては、小説本来の「書を友とする」意味は度外視されてしまっている、ということに注意が必要であろう。。

  では、(一応)右脳的な速読が可能な場合はないのか?それは、文字情報が即具体的なイメージと結びつくような場合であろう。そのような領域とは、事実を報道する新聞記事、テーマがさして問題にならない推理小説、道路交通法規のような具体的な規則、技術的なマニュアル本の類であろう。たとえば新聞の斜め読みというのはまさにこの速読の例である。

 しかし、抽象性の高い論説文や抽象性の高いテーマを持った物語文には、いわゆる右脳読みは当てはまらないと言えよう。それはどこまでも左脳と右脳の協業を要する作業であると言える。そして、それは通常、「読書百遍」を要する作業となろう。
 

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